ちりもつもればミルキーウェイ

好奇心に可処分時間が奪われる

放送大学に出願した

はじめに

これはポエムであり、人生からするりと抜け落ちてしまったある部分を、社会人になってから回収しようとするアツい男の物語である。

ようは、ぼくはいろいろあって高卒であり、どうしても抑えきれない熱があるので、いまの暮らしを維持できるように人生とのバランスを取りつつ通信制の大学をやっていくぞというお話です。

ちょっと大仰ですが、これは過去にすり抜けたものを拾っていく物語なので、ぼくの人生から大学がすり抜けた経緯から軽く紹介します。

金がなかった

そもそも僕んちは母子家庭で4人姉弟であり、僕はその末子です。というわけで大学いくならめいいっぱい限界まで奨学金借りつつ足りない分はバイトで払うみたいな感じになります。

実は兄は奨学金フルコンボで私立大学に進学してたんですが、その大学の空気はモラトリアム満喫色が強かったっぽく、金銭的にかけてるコストに対して価値を感じられなかった〜みたいな背景で中退してます。

そういうのを近くで見ていたので、金銭的な話と学問にとりくむ姿勢を考えて、国公立いけたらいいな〜みたいなのをなんとなく思っていました。

自分がなにをやりたかったか

ぼくはいいものを作ったり、それに関わったりする人が好きなので、それに関連した仕事をしたいと思ってました。

いつからそう思うようになったのか、タイミングは定かではないです。気がついたときには、コンテンツやプロダクトに心が揺さぶられると心のどこかで「これを作る側に回りたい」と思うようになっていたと思います。

自分がいいものを作れる人になれるように、とにかくたくさんのことを学びたがっていたように思います。僕はたぶん知的好奇心は強めなタイプなんですが、同時に怠け者でもあり、適度な緊張感がある関係があるほうがインプット/アウトプットの効率が上がります。大学という教育期間はそれを満たしますし、そういう環境で体系だった知識/技術を習得し自分を鍛えることを目標にしていました。

当時は情報系の高校に在籍してたんですが、そのときは情報系の授業より現代文や美術などの授業により強く面白さを感じていました。

特にデザイン周りの仕事は職業として強く惹かれていきました。それは自分とコンテンツやプロダクトの間の接点としてどこかしらでデザイナーが関わっているのが想像でき、当時の自分にとって一番イメージしやすい「いいものに関わる人」だったからです。

在学中にいろいろ検討した結果、金銭的な事情もあり国立以外は難しかったので藝大を目指すことにしました。(これはもちろん浪人前提の計画ですし、うまく行くかわからなかったので撤退条件も決めていました)

いまはWebアプリとかの開発者として仕事をしているので振り返ると全然ジャンル違いに見えますが、根っこの「いいものを作ったり、それに関わったりする人が好き、自分自身もそうありたい」みたいなのはだいぶ昔からずっと変わらず一貫しています。振り返ると、ジャンル問わずその状態にたどりつくために、大学という教育期間を通して体系だった知識/技術を適度な緊張感の元で学びたい気持ちがあったのだと思います。

高校のときの受験対策とかについて

美大の受験は実技の対策が必須です。ぼくはデザイン科志望だったので、デッサンとか平面構成とかの対策をする必要があります。

なんですが、いわゆる美術予備校は当たり前ですが一定の料金がかかります。現役生向けの夜間部は年間でだいたい30万~50万くらいで、浪人生などを対象とした昼間部は年間でだいたい50~80万くらいかかります。(ちなみに美大受験、特に藝大は浪人がデフォみたいなところもあり、ぼくが通ってたところは3~4浪はゴロゴロいて、6浪とかもいた記憶があります)

ここでかるく美術予備校がどういうものか紹介します。予備校によりますが、だいたいが試験対策の実技課題を昼6h/夜6hあわせ一日12hくらいぶん回しつづける場所です。そのさい講師として藝大やほか著名美大卒の方、もしくは現役の各大学の学生の方がいらっしゃる場合が多いと思います。そういう環境なので、時間投下してとにかく数をこなしつつこまめに適切なフィードバック得られます。体当たりで泥臭く上達していくにはこれ以上の環境はないとおもいます。逆にいうと、一般の高校生が美術予備校を経由せずに実技付きの著名美大に入ることは事実上不可能なように思います。(世の中は広いので外れ値もいるのかもしれませんが、すくなくともかなり困難ではあるはず)

当然ぼくの家庭には受験対策に重課金できるお金はないので、現役のときは高校の美術室に放課後通わせてもらって美術の先生に面倒見てもらいながらデッサンやりつつ、長期休みのときには部活の合間をぬって予備校がやってるちょっと安めのプランみたいなのに課金してもらっていました。

現役のときはそんなかんじだったので、まあ普通に受験には落ちました。もともと投下リソースの都合で浪人が本番だと思っていたので当時はあまり気にしてなかったですが、級友たちは各位進学先が決まっていたので社会のレールから滑り落ちちゃった感覚は強かったです。

浪人 & 予備校

はじめに明記しておくと、いままでの人生でこの時期が一番しんどかったです。

お金の都合で現役のときはうまく受験対策できませんでした。でも、なんと高校卒業すればフルタイムでバイトできるので、予備校費用については自分で解決できます!すごい!

ぼくの計画はこうです。まずはじめに短い期間でできるだけお金を稼いで、その後予備校に通う。金とか精神の都合でたぶん2浪までしか持たないので、そこまでやってだめだったら諦める!なるほど完璧な作戦っスねーーっ(不可能だという点に目をつぶればよぉ〜〜)

ということでまずはバイトしまくって3ヶ月で100万貯めました。当時はただの高卒で専門技能なども修めてなかったので(一応情報科高校卒だったけど仕事できるほどではなかった)、地元の居酒屋とかのバイトを掛け持ちしてとにかく労働しまくりました。時給1000円前後だったので、当時は月に330hくらいは労働していたようです。一ヶ月は30日あるので、平均すると一日11hくらいの労働でした。みちみちにバイト詰めて、体に限界きたら次のシフト申請で休みを入れて一日中寝たりしてました。

この時期は肉体的にバチバチにしんどかったです。3日に1回くらい足攣って起きてました。とはいえ、いうてバイトしまくってるだけなので精神的にはあんまりきつくなかったです。たまに友人と遊びにいってたのでなんなら楽しかったです。

そんなこんなで軍資金100万ができました。美術予備校の昼間部はだいたい50~80万、かつ各種備品などの購入も必要なので、2年分にはちょっと足りません。この時点でちょっと計画からビハインドしました。なので、1浪め前半は昼間部だけ通って夜はバイトしてお金ためて、その後は昼夜ぶっ放して真の浪人生活のスタートや!というかんじに計画を修正しました。

さて、稼いだ軍資金を課金して予備校の昼間部に通います。単価の低い労働でしょっぱく稼いだ金がATMに吸い込まれて行くのをみて「後戻りできないな〜」と感じて震えたのを覚えています。

日中は予備校で6hかけて課題やって、夜はバイトの生活が始まりました。

予備校では3浪4浪とかの方がゴロゴロいて、ぼくと同じ1浪めのひとも現役のときにガッツリ夜間部通ってた人ばっかでした。要は僕が一番格下であり、かつ浪人してからの参戦なので仲いい知人もいないよ、という状況からのスタートでした。

とにかく予備校時代は大変でした。さすが美術予備校というか、講師の方に囲まれた環境で時間を確保してひたすら描き続けるのはやはり効果が高くてめっちゃ上達しました。なんですが、ぼくが2年分のお金を稼ぎそびれたのもあって夜はバイトで離脱する日々だったので、僕より上手い人たちよりも比べて投下時間が少なかったんですよね。「こんなんじゃダメだよ不利な戦いなんだからせめて格上より時間つかわなきゃ」「なんであのときもうちょい頑張って2年分稼ぎきらなかったんだよ」みたいな自分への声が日に日に大きくなっていくのを感じました。

受験ドロップアウト、そして

不思議なもので、ほんとに忙しいときとか追い込まれてるときって、休んだりすると糸切れちゃうんですよね。

受験直前のある日、予備校ですこしまとまった休みが配られたときがありました。自習課題ありだけど提出期限余裕あるし体調崩しちゃったので後回しにするか〜ゆっくり休もう!としたんですが、数日休んだことでいままで麻痺してたいろいろなストレスにめちゃめちゃ自覚的になりました。かつ、ぼくはその自習課題の提出日勘違いしてて実は休み明けに提出しなきゃいけないことが休み明け予備校に到着してから判明しました。ここで気持ちがプチっと切れて次の日から予備校に向かえなくなっちゃいました。なんだかんだ1年くらい真剣に取り組んでたので一応受験は受けたんですが、1年程度で藝大受かればだれも苦労はしないので案の定落ちました。

落ちたあとすこし休んでたんですが、もう一年頑張る気には全然なれなくて、というか予備校にまた通える気がしなくて、そこで受験からはドロップアウトしました。

ぼくはそんなこんなで中途半端に美大受験した過去があります。なので、親の支援あるなしに関わらず美大受験ガチってるひとはまじで尊敬してます。僕は現役微課金 + 1浪くらいで折れたのでかなり早期にリタイアしたほうです。みんな本当にすごいと思います。

僕は完全に心が折られてしまって、純粋なデザインやら造形だかの技術で飯が食える気がしなくなりました。なのでそういう生き方してる人はすごく尊敬する気持ちがあります。

当時自分が持っていたものを整理して、どういう方向なら「いいものを作ったり、それに関わったりする人が好き、自分自身もそうありたい」みたいな自分の気持ちと一致する形で飯が食えるか考えました。で、高校が情報科だったのもありそういう方向でいっちょやってみるか!となりいまに至ります。

この選択はいまになって振り返ると大正解でした。僕はおそらくこの仕事に適性があったし、なによりも楽しめています。

プライベートの時間に本を読むことも、趣味で小さなライブラリを作ったりするのも、気になったことを検証して記事を書くのも、問題を深掘りすることも、それを紐解くことも、いつ役に立つかわからないようなものを好奇心で調べていくことも、小さいことを少しづつ積み上げていくことも。そうやって培ったものをつかって、だれかと協力していいものをつくることも。ぼくは楽しめています。それでだれかに価値を提供できて、社会と自分との接点になっています。そのなかで、自分自身もいまよりもっといいものを作れる人間であれるように、日々背筋を伸ばして頑張りながら生きているわけです。

あのときの僕がなりたかったものに、多分いまの僕はなれています。

過去の自分の骨を拾う

というわけで僕はいろいろな経緯で高卒なわけです。

その後は普通に仕事を初めて、関わってくださった人や企業との縁にも恵まれ、そんなかんじで毎日頑張っています。

ただ、世間を知らない子供なりに精一杯ガチンコで戦っていた、あの頃の自分の骨をいつか拾ってやらないとな〜という思いは日に日に大きくなっていきました。

美大受験については完全に心が折れているのでもうやる気にはなりませんが、自分がいいものに関われる人であれるように、プロとしてよりよいものを作れるように、しっかりと学問を修める機会を得たい、そのためにどうにか大学に行きたい、みたいな気持ちはずっとありました。

我ながらこれは半分呪いじみています。通信とはいえ卒業のために124単位前後とるのはそんなに簡単ではないし、かなりコストもかかるわけなので。というか別に学問を修める機会としては大学でなくとも、個人の関心が向いてる分野については放置されても勝手に勉強しますし。

それでも僕が大学という教育期間を目指したいのは、あのころの自分の骨を、せめていまの恵まれた自分は拾ってやらなきゃなと感じているからです。

どうせほっといてもこの呪いはずっと僕を苛むとおもうので、諦めてやってやるかとなった次第です。プライベートで勉強したいことも引き続きやるから4年で卒業できるかはわからんですが。

放送大学に出願しました

いろいろ検討しましたが、社会人やりながら通信で通える、かつ入学前/在学中のコストがひくいものを選んだ結果、放送大学に出願することにしました。資料請求などしていろいろ見てみましたが、単位認定試験に類するもの(1学期あたり1weekくらいの試験期間があるっぽい?)以外は登校の必要がないようでかなり社会人に優しいかんじでした。あと安い。

ほかにも選択肢はいろいろあったんですが、こういうのは始めるのが大切で、カリキュラムが肌に合わなかったら編入などもできるので、まずは始めやすく続けやすいことを重視しました。あと情報工学関連の単位が履修できること。放送大学はこの条件を満たしたので出願した感じです。

放送大学には教養学部しかないので情報工学などの学士はもらえないんですが、過去には こういう偉人の前例があり 学位授与機構を利用すれば、放送大学で履修した単位をもって 工学(情報工学専攻) の学位を取得可能なようです。(地味にぼくはCSとかの学士がないので Engineer を名乗るのに気が引けていて「開発者です」みたいに言ってるので、工学関連の学位がもらえるのは普通に嬉しい)

無事卒業すれば、より発展的な内容に興味が出たときに大学院に行く!みたいな選択肢もきっと取りやすくなる(実は高卒でも資格を満たせば行ける大学院はあるらしいがここではこまかく考えない)し、しばらく頑張ってみます。

願わくば数年後に「過去の自分の骨を拾いました」というタイトルでブログがかけることを祈って。