ちりもつもればミルキーウェイ

好奇心に可処分時間が奪われる

フェイクにならない強い意思

真摯に向き合うこととフェイク

こんばんはみなさん。ガチンコしてますか?ぼくはぼちぼちです

突然ですが僕はものを作ったりするのが好きです。そこから転じてものの仕組みを追いかけたりするのも好きです。
興味があって調べてたら思ったより時間つかっちゃった!とか、業務で引っかかったところにモヤモヤして土日で調べてスッキリしたりだとか、なんかそんな雰囲気で暮らしています。

で、ものを作ったり仕組みを追いかけたりする上において、自分は真摯さというものをめちゃめちゃ大事にしてるなということに最近自覚的になりました。
考えてみたら結構面白かったので思考をdumpしておこうかなと思ったのがこの記事を書こうと思ったきっかけです。

技術の文脈において真摯であるってどういう状態なんだろうか?みたいな問いにはいろんな答えがあるとおもいます。
技術が好きであること、コミュニティになにかしら貢献していること、ほか、ほか...
どれも真剣に技術に向き合った結果でありcoolなことだとおもってます。

でもぼくがなにより大事にしたい、僕の中での真摯さというのは

知らないことを知らないと言えて、わからないことに対してわかった気になって終わらせない

ことです。

これは自身も省みることが多くて、なぜかというとめちゃめちゃ意識してるけど僕も真摯でないときがあるからです。

知らないことのうち、興味があるものはちゃんとキャッチアップすればいいです。
たとえばencodingに興味があるなら仕様をみるべきだし実装を読むべきです。
ふんわり周辺のツールチェインの使い方をなぞるだけでは技術の大トロが味わえなくてもったいないので、興味の芽は丁寧に育ててちゃんとわかるようになるまで面倒をみてあげたほうが楽しいです。

どんな小さなことでも、どんなに役に立たなそうなものでも、しっかり向き合って丁寧に理解を重ねていけば、いつか思いもよらない遠いところまでいけるぞ! とまあ僕はそう思ってるわけですね。このブログの名前の由来でもあります。

そこまで真摯さについて考えているくせに、じゃあなんで真摯じゃない振る舞いをするときがあるんやという話なんですが、これは一言でいうと 真摯であることはめちゃめちゃ大変なので、常にある程度で切り上げてフェイクに流れる力学が働く からなんすよね。

フェイクとは

ぼくのなかのフェイクとは真摯とは真逆のものです。つまり

知らないことを放置して、上辺をなぞったわかった気になるキャッチアップしかしない

ということです。僕はこれをめちゃめちゃ嫌っていてフェイクマンには絶対になりたくないと思っています。

ただ同時に、ぼくはスーパーマンではないのですべての範囲において真摯あることは不可能なんですよね。また、真摯でありつづけるとナメクジみたいなスピードしかでないです。

僕は真摯さを大切にしたいと思っていて、興味がある技術はできるだけRFC等の仕様を読んだり既存の実装を読んだりすることを意識してるんですが、それには大きな問題があって 世の中の知識が広くそして深すぎて、自分の知的好奇心に理解のスループットが全然追いつかない んですよね。

例を上げると僕は現在、暗号技術とか分散コンピューティング(とそれにまつわるデータ整合性とかの困難さ。分散合意など)あたりに興味がありますが、これらのトピックに対して真摯であろうとすると、全然好奇心のスピードに理解が追いつけないんすよね。

うーんこれ気になるけど根っことなるこの技術がわかってないとちゃんと理解できないなーみたいなとき、ほんとうにすべてを真摯に追いかけ続けることができるのか。ある技術要素は前提や文脈に支えられている場合も多く、「全部やる」はあんまり現実的じゃなかったりもします。

広く深い知識の海を前にして真摯でありたいという僕の志は松明としてはあまりにちっぽけで吹けば飛んでしまうんですよね。「それはわかったことにして先に進んじゃおうぜ」という誘惑に抗うのは結構難しいというか、実際無理だと思います。

フェイクとの闘い

先に白状すると僕は常日頃フェイクに負け続けています。惨敗です。というか全戦全敗です。
どこまで真摯さを大切にしていても、ぼくはわかっていないことがめちゃめちゃ多いです。

じゃあ真摯さに価値なんか無いのか?と思うかもしれないですが、そんなわけはありません。

真摯さは広く深い、真っ黒な知識の海に向き合うための光です。 それはちっぽけな光で吹けば飛ぶ松明なのですが、手の届く範囲は照らしてくれます。
光の届く範囲でコツコツと掘り進めれば今よりも深いところの様子がわかります。
どんなにささやかでもどんなに頼りなくても、やっぱり僕は真摯さだけが自分をいまより豊かにしてくれると思うんですよね。

それでもそんなちっぽけな光では立ち向かうにも限りがあるし、いつかはフェイクに負けてわかったフリをしちゃいます。だけど意思を持って一歩でも抵抗することで、 少しだけ光に照らされた領域が増える んですよね。

これが僕はめちゃめちゃ大切だとおもっていて、フェイクに負けることを受け入れつつ、自分にできる限界まで真摯であろうと思っています。
小さな松明で体当たりを繰り返して、いつかほどほどの湖くらいまで光で照らせると自分の人生いいもんだったな〜と思えるような気がしてます。

責任範囲とフェイク 〜フェイクとはなんなのか〜

とはいえどれだけ真摯であることを望んでも、フェイクは日々人々を襲います。典型的には 責任範囲が広く、抽象的な問題領域に向き合わなければいけない ときはフェイクの戦闘力が1万倍くらいになります(convto調べ)

むしろ、逆にこのような問題領域では 個々のものごとの特徴や性質を抽象的にとらえ、それらにどう働きかけるか? などを気にしたほうがちゃんと成果が出たりします。おお!なんということでしょうか!!

そうです。さも悪いもののようにフェイクを語ってきましたが、どうやら 詳細を気にしすぎないことも物事をすすめるためにはとても重要 なんですね。

重要なことであるのにフェイク呼ばわりは適切でないですね。ではこれがなんなのかというと 視界の広さ みたいな概念なんですよね多分。より正確には視界の広さの源というか。うまく言語化できない。好奇心とはちょっと違うしなー

深く広い知識の海へ向き合うための道具として、真摯さが深く潜ることを補助するちっぽけな光だとすると、フェイクは 海を漂流するためのイカ なんすよねきっと。

真摯さと視界の広さ

ここまで話したら完全に理解したとおもうんですが、組織、ひいては人生にはどっちも必要です。

きっと真摯であるだけではうまく世の中の価値につなげることが難しいし、さりとて視界だけ広くて詳細をわかってなければなんにも実現できないんでしょう。

ここまでグダグダ前置きして何が言いたいかというと、どっちも大切ということをわかったうえで、僕は真摯さに向き合いたいんですね。
なんでかっていうとそれが性にあってるからであり、 僕にとってはそれが遠くへ行くための一番良い手段だという強い直感があるから です。

とはいえ生きていく上で、ひいては組織で大きな仕事をして世界をよりよくするためには視界が広い人の手助けが必要です。だれか僕を助けてくださいお願いします一人じゃなんもできなくて困っています。

そのかわりといってはなんですが、視界の広い人がなにかをよりよくする方法を思いついて実現するために助けを求めていたら助けます。きっとそれが僕の役割であり、そのために日夜役に立つんだかわからないことにあーでもないこーでもない言いながら向き合ってるわけなので。

自分の役割をちゃんとこなさないといけないので一生懸命がんばらないとね。ぼくより詳しい人が世界にはたくさんいるし。体当たりし続ける人生をこれからもやっていきます。